M-1、キングオブコントなどのお笑い賞レースについて思う事

【この文章は、去年から書こうと思っていたものであって、松本人志さんの案件とは直接の関係はありません。】


時代が音を立てて変わり始めたようです。


2023年のM−1チャンピオンの令和ロマンは、明らかに今までの芸人とは違う新しい感覚を持ってるコンビのようです。


勝負の世界で勝ちにこだわると同時に、俯瞰の視点も持ち合わせいる。いや確かにこれは芸人なら誰もが持っている視点ではあるが、それを年1回の大舞台に優勝した後に明確に発言したというのが、時代が変わったと感じた訳で。


https://news.mynavi.jp/article/20231226-2850771/

 

M-1グランプリは、テレビを見ないと言われてる昨今では脅威の高視聴率を叩き出す、もはや国民的コンテンツになっているともいえる。

それは誰が優勝するかは予測が難しく、そして一夜にしてスター誕生的な起こるイベントになっているからなのだと。特に笑神籤導入以降は、まさに神様に選ばれた人が優勝する感じになっている。 


そして優勝しなくても知名度が一気にあがるケースも増えてきている。噂によると、M-1は3回戦あたりから面白いコンビにはオファーが舞い込むケースが多いらしい。M-1予選のYouTubeは、青田買いの場になってるんだろう。


しかし同じ賞レースでも、キングオブコントになると、コント師への注目度はM-1までの盛り上がりまでは至っていない。それはキングオブコントには敗者復活とYouTubeがないからなのではと思う。


確かに漫才とコントは違う。

漫才は同じネタでも日によって違うものになる事もあるが、コントは出来上がったネタはそこで完成されたものなので、YouTubeに公開した時点でネタバレになってしまう事になる。


要は漫才とコントは、客の立ち位置が違うんじゃないかと。漫才はお客の様子や空気を見ながら、お客の中には入っていく。しかしコントは逆で、客の顔を見て事前にネタを変える事はあっても、ネタの内容は変えず、自分の世界にお客を引き込む。

だから客が芸人の作る世界に合う合わないと感じるのがどうしても漫才よりも大きくなる気がしている。


前回のキングオブコントの準決勝のメンバーを見て、こんなにハイレベルなコント師が一気に集まるライブはありえないだろと驚愕した。


キングオブコントの決勝はテレビ番組なので、視聴者が見て分かりやすいとか、多様な芸風のコンビが選ばれるのは仕方がない事だと思う。でもあれだけの実力がある芸人達が、決勝にいけないだけで全く日が当たらないのは、どうなんだよと!

M-1なら決勝いかなくても、YouTubeなどでファンになる人が増えるかもしれんのに、キングオブコントにはそのチャンスがない。


それにずっと気になってる事がある。


M-1グランプリキングオブコントも、賞レースの予選は全てチケット販売されており、しかも配信までやっている。そしてそのお笑いの賞レースのほとんどの胴元は、吉本興業である。


ちなみにキングオブコントの配信、私は悩みに悩んで購入しなかった。

あれだけの芸人達が登場していて、配信料4000円は高くないと思う。しかしこの配信料は準決勝に出演した芸人達の懐に入らないのではないか?

というか、芸人達はみんなエントリー料を払っているのに、キングオブコントは特に決勝にたどり着かなければ、何も残らない?

おかしくないか?と思い、購入を断念した。

芸人達の手元に届かない、ただ吉本興業が儲かるお金は払いたくないと思った。


新しい感性をもったチャンピオンが登場したのだから、吉本興業も新しいスタイルに変わって欲しいと思う。 例えば賞レースは吉本興業の中ではなく、別機関として外部で運営するとか。

入場料や配信料などで運営。その中から運営料金として吉本興業に支払うという形にして欲しい。例えその運営料が今までかかった金額と同額であったとしても、可視化するのが重要。


何故なら吉本興業は上場していないので、在阪5社在京5社の株主という、ジャニーズや宝塚のように忖度案件を疑われる状況になっている。

だからまずは賞レースをブラックボックスから出して欲しい。


そして多様なお笑いを、業界全体で協力して育てていけるような仕組みを是非作って欲しい。

次の世代に繋げていく(40年ぶりにマルサリスを見て感じたこと)

ウィントン・マルサリスのライブに行ってきました。私は約40年前に、アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズのメンバーとして兄弟で来日した彼を見た事があります。


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その時のマルサリス兄弟は既にとんでもない新人が現れたと騒ぎになってはいましたが、ジャズ・メッセンジャーズのメンバーとしての演奏だったので、お行儀がよかった印象でした。演奏は素晴らしかった記憶ですが、何しろあのカミナリオヤジのようなアート・ブレイキーが仕切ってましたから(笑)

 

あれ以降、諸々忙しい人生を過ごしていたので(他記事参照)ライブに出かけるという事もとても少なかったので、今回のライブはとても楽しみでした。

 

本当に素晴らしかったです。

彼はデビュー当時から既にとんでもなくうまかったので、新しいマイルスと称されていたのですが。

だから今はどんな難解な事とかやってるのかなと不安はあったのですが。でも全くそんな事はなく、正真正銘の王道のジャズでした。

そして相変わらずの正確無比な演奏。

えげつなかったです。

 

私はライブに行くとき、予習をせずに行くので、大抵のほぼ曲は知らなかったりするのですが、その中でよく知ってる曲がひとつありました。

Goodbyeという曲です。

私が初めにこの曲を知ったのは、テレビで放送していたベニー・グッドマン物語です。

確か父親の訃報を聞いたシーンで使われていました。多分小学生だったのですが、この曲はとても好きで自分でもよく弾いていました。

 

年齢を経て人生も一段落ついた今、大好きだった曲をマルサリスが生で演奏してる。

しかもアシストは小曽根真

本当にとんでもなく素晴らしくて。

神様から「今までよく頑張ったね」と、プレゼントを貰ったような気分になり……

 

まあ実際には、ただの偶然ですが。

後から調べたらGoodbyeはマルサリスがよく演奏する曲だったようで、それを単に私が知らなかっただけなので。

ただエンタメには、こういう巡り合わせというのがよく起こる。そのタイミングで聞くと、とんでもなく響いてしまう。

本当に素晴らしい時間でした。

 

その後気分が高揚したまま、ライブの帰り道、ふと気づきました。

白人の曲を黒人が演奏してたんだなと。

私の子どもの頃には、まだ黒人への差別がいたるとこにの残っていて、音楽も白人黒人で語られる事がよくあったのを記憶しています。

 

でも今はそんな話はほぼ聞かなくなり。

もう人種では語れない様々なアーティストが登場していて、音楽はもう完全にボーダーレス化してるんだなと。

 

そして、アート・ブレイキーの前でお行儀が良かったマルサリスが、今度は後輩達を制したり引っ張ったりして演奏してる事も感慨深くて。

自分が先輩に与えられたものは、後に続く人に返していく。これが全ての社会でできれば、世の中本当によくなるのにねぇ。

私もそうありたい……

 

私の推し遍歴(音楽編)

物心ついた時には、母が好きだったナット・キング・コールやシナトラのレコードが転がっていて、よく聞いていた。
そのせいか子どもの頃から演歌が大嫌いな子だった。

例外として美空ひばり三橋美智也は好きだったが。

 

小学生の時は身体が弱く

……というより、母が過保護で少し具合が悪いと学校を休まされた。

具合が悪い時に本は読んではダメと言われてラジオを渡された。
でもこの時代、AM局では演歌しか流れてないのが嫌だったのであまり聞かず。
その中で、海外の音楽ばかり流れてくる局を見つけその局ばかり聞いていた。
それがFENで(横浜出身)、そこで多様な音楽を聞いてたように思う。

その後中学あたりから、フォーク、ニューミュージックなどが台頭しだした頃から、本格的にAMラジオを聞くようになる。
高校に合格してステレオプレーヤーを買って貰いFMも聴けるようになり、いろんな音楽を知る事になる。

その中で最初のオシメンはさだまさし(グレープ)だった。記憶が定かではないのだが、精霊流しの時から好きではあったが、決定的に好きになったのは、朝刊と交響曲という曲だったと思う。朝刊という曲は、その後の雨やどり、関白宣言の流れをくむコミカルな曲。そして交響曲は壮大なストリングスによる曲。

で、そのアレンジが服部克久さんだった。
→ここで、服部克久さんが新たなオシアーティストになる。
まっさんの場合は、本人のキャラもオシになる要素があったんだろうと思う。

ラジオも当然聞いてたから。

 

中学の頃、ラジオでよく「ダウンタウン」という曲がかかっていた。すごく好きな曲だった。シュガーベイブ
昔はネットなどないので、どんなバンドが分からない。

その後すぐ解散ライブがあるという情報はラジオで流れてた。
中学生の私はどうやって行けば見れるかも分からなかった。

この時点でアルバムがでてる事すら知らなかった。

というか、レコード店にはなかったし!

しばらくしてラジオで「Let's Dance Baby」という曲を聞く。

へえ、山下達郎
ナイアガラトライアングルに参加?
しばらくしてLPを買った。
確か最初に買ったのか「GO AHEAD!」だったと思う。

 

シュガーベイブに参加していた事に気づいたのは後になってからだったと記憶。
昔はネットなんかないから、音楽雑誌とか見てなきゃそんなの分からんのですよ。

その後、完全にハマり現在に至る。

その流れで、竹内まりやEPO濱田金吾安部恭弘崎谷健次郎などのシティーポップと言われる音楽にもハマっていく。

 

高校に入ると、シティーポップ関連とは別に、ジャズにもハマりだす。

元々ナット・キング・コールフランク・シナトラを昔から聞いていたので聞きやすいというのはあったのだと思う。
ジャスのアーティストは好きな人がいすぎて書ききれない。

 

ちなみに本人は、エレクトーンとピアノをやっていて、短大は誰でも入れる音大に。

いわゆる挫折組です。

 

ナタリー・コール
→母に連れられて初来日を見た。本当に歌がうますぎて驚きしかなった。

カウント・ベイシー
→本人出演のライブ行った。

フランク・シナトラ
→必死にお金ためて1番安いチケットを買って行った

キース・ジャレット
→武道館でのライブ、2日間も行った

秋吉敏子
→ライブ行った

アート・ブレイキーとジャズメッセンジャー
→マルサリス兄弟参加の時行った

パイロ・ジャイラ
→ライブ行った。
パーカッションがシーラEだった。

ビル・エヴァンス
→既にいなかった
テテ・モントリュー
→既にいなかった
コールマン・ホーキンス
→既にいなかった

まだたくさんいるけど……

 

ジャズと同時に、ボサ・ノヴァも聞きまくる。

私自身よく分からんのだが、普段音楽をしながら他の作業をするのは気が散って全くできない。特にジャズは作業が全く進まない。
まあ何度も聞いた曲なら大丈夫なんたが。
でもボサ・ノヴァは大丈夫なので、作業をしてる時にはよく聞いている(今も聞いてる)ちなみに家事をやってる時は、芸人ラジオが多い。

 

20代には憂歌団にもハマり、何度もライブにも行って、大声でスティーリンも歌う(笑)
ゴンチチも好きで、憂歌団&ゴンチチの無料ライブとかも言ったな。
(確か後楽園ゆうえんち)

 

逆に海外アーティストには、ハマった人は少ない。
唯一、全レコードが欲しいと思ったのは、ドナルド・フェイゲン
スティーリー・ダンのライブ行った
あとは
トム・ウェイツなど。

 

AORはジャンルとして好きだった。
シティ・ポップの源流だと思ってる。

 

その後も、ボツボツと好きなアーティストは登場した。

息子と一緒に見てたFOLDER(三浦大知)は、超驚いて全部CD買った。

オリジナル・ラブなどの渋谷系は、子育てが一段落した後に知って、後追いして聞いた。

 

新品のCDを必ず購入するほど、すごくハマったという人はいない。

で、突然登場した藤井風にドハマリして、現在に至る。

なので今、新品のCDを必ず買うというアーティストは

山下達郎
ドナルド・フェイゲン
藤井風

ぐらいではないかと。

 

Spotifyのブレイリスト

 

https://open.spotify.com/playlist/48axaTrxkOMaBFdCdNsJdt?si=Umm8jSKOQFe2CQ07BlzZ1g&utm_source=copy-link

 

https://open.spotify.com/playlist/72wnjo0nEq5SOlrlFWi5jB?si=k6F4734hR5Ocm88xyFJQ0A&utm_source=copy-link

 

私が長生きしたいと思うようになってしまった藤井風について

藤井風が稀代のアーティストである事は既に確定されてる状況で、素人の私がどうこう言うのもなんなんだが(笑)
一度全部整理しておきたいので、いろいろ書き留めておこうと思います。

彼を最初に知ったのは、伊集院さんの深夜の馬鹿力で流れた「優しさ」を聞いたのが最初でした。FMラジオは全く聞かなくなっていたので、新しいアーティストを知るのは、テレビの音楽番組が主なので、それまで全く知りませんでした。


ただ一瞬聞いただけで、なんだこれ?と思い、ラジオを止めてSpotifyにある曲を全部聞き、即座にCDを購入する事を決めていました。
新品のCDを購入する事は滅多にない事なので、私の中では大事件でした。

 

その後、You Tubeにアップしてある動画を見て、またしてもいろんな驚きがありました。そして思ったのです。
ああ、この人は「のだめ」だと……

いろんなところがはみ出していて規格には収まらない。そして彼の中に、ものすごく魅力的なものが散りばめられている。

完全に千秋の気持ちになって見てしまった
……これは大変だぞーって。

 

MUSICAのインタビューを読んでみると、勉強もピアノも全て父親が毎日付き添っていたという話。読んでいてなんとなく盆栽育ててるみたいな印象を受けました。毎日毎日観察しまくって、必要なだけ水を与え、たまにちょっと剪定する。
まあ本来子育てって、そういうものじゃないかと思います。

でもこんなの誰にでも出来る事じゃないっすよ!尊敬してしまいます。

 

彼の人柄や音楽への姿勢などは、家庭で大事に育まれてきたものがあっての結果なのだと。

 

それにしても藤井風で何が驚いたかって……

 

初のテレビ出演が報ステ(音楽番組じゃない)

初武道館で、新曲を2曲も出してきた事。

初楽曲提供がMISIA

突然NHKで特集される。
しかもSONGSではなく、ゴールデン枠の NHK MUSIC SPECIAL

www.nhk.jp

 

音楽番組初出演が紅白。
しかもメドレーで2曲という人は、今までいたかもしれないけど、MISIAと共演して実質3曲というのは前代未聞の筈。

 

そのまま一切既存の音楽番組には出演してない状況で冠番組をやり、コントにまで参加。
そしてテレビ初のカヴァーが、お見送り芸人しんいちのネタ……

 

国策映画の音楽を担当(これについては後で書きます)

 

斜め上にも程がある……
というか、斜め上角度が鋭角すぎる。もう意味が分かんない。


1番凄いなと感じたのがデビューしてから、ピアノが明らかに変わってきていて。
うまくなってるというのもあるのですが、明確にプロ意識が出てきてるようで

あっ、飛び出しちゃったみたいなのが格段に減ってきている。

よくよく考えると、彼はデビューしてまだ2年なんですよっ!

こんなに早く成長できるもんなのか?

 

全てが規格外、想定外。

 

ただひとつだけ気になってる事はあって。
ピアノの弾き語りとバンドでの演奏、この落差。

CD発売する為には、バンドでの演奏がやはり必要。でもピアノの弾き語りを聞いてしまうと、こっちのほうが良くないか?って思ってしまう事がある。
特にリズムのとり方やコードが、かなり独特?

しかしちょっと聞いただけではそれが見えない
それだけ、彼のビアノの弾き語りは別格な印象を受ける。

 

そこに、弾き語りホールツアーですと?
これは行きたい!と思い、抽選に申し込んだら一発で当選?
達郎さんのライブなんか、40年、未だに一度も当選した事ないのに(笑)
と狐につままれた気持ちで、ライブを見に行きました。


最初はニューアルバムのカヴァー集から。
あとは持ち曲と、リクエストコーナー。
当日リクエストされたものからセレクトしていくので、当然完成度は高くないのですが、どうやらリクエストコーナーのほうが、集中度がアップするようで。

え?今の何?
もう1回巻き戻して確認させてっ!
という事は何度かありました。

 

オリジナルではさほど大きく変わる事はないようですが、多分日によっていろいろ変わる人なのかもしれないです。
そういう点では、藤井風の弾き語りライブは一期一会なのかも。

 

ただ全体的にムラッ気があったり注意力散漫な所も見受けられました。多分コロナの後遺症があったのだと思われます。

もう少しゆっくりお休みが取れればよかったのでしょうが、諸々難しかったのだと思いますが。

 

実は私がこのライブで聞きたかったのは、「まつり」とオリンピックの主題歌として作られた曲だったのですが、まつりはオケで、オリンピックの曲はセトリに入っていませんでした。それはちょっと残念でした。
まつりの弾き語り、いつか聞きたい。

 

オリンピックの主題歌は、一瞬聞いただけで魅力的な曲だと感じました。
私自身は今でもオリンピックには反対しているし、映画に関してはまだ見てないので判断はできないです。
しかし音楽などの作品とその他の事は分けて考えるべきたと思っています。

 

例えば、私はフランク・シナトラが大好きですが、彼が晩年、南アフリカサンシティで唄っていた事(アパルトヘイト問題)は、容認できる事ではないと思っていました。

しかしそれで、彼の音楽自体の存在が変わる訳ではない。

だから曲に自信をもっているのであれば、堂々と作品として発表して欲しいと思っています。その時にはいろいろ言われる事はあるかもしれないけど、何十年も経てば残るのは音楽だけです。
そして、未来の人は純粋に音楽のみを評価してくれます。

今のCITY POP人気を見てて、それを強烈に実感してるアラ還です。

 

最後に若い方に。

誰かを応援するという事は、それが自分にはね返り、曲やメッセージに応援されるという事です。そしてそれが同世代のアーティストなら、年齢を経てもずっと青春を一緒に歩き続けていけます。
流行っているとかではなく、自分の心の中で本当に好きだと思える同世代のアーティストを見つけて、是非一緒に歩んで下さい。

アラ還の私には、50代になった藤井風を見る事は難しい

だから今はできるだけ長生きしたいなと思いはじているのですが。

 

 

 

ドラ&ドラパパの クレイマー・クレイマー日記②

(2001.8.29記)

 

25~26日目

この週あたりから幼稚園ではとても安定していたらしい。でも家では相変わらずべっだりだっらしいが。主人から息子の様子を聞いていると、どうも家に帰ってご飯を食べさせてお風呂に入れて、寝かしつけるだけしかやっていないようだ。

という事は、息子は確実に「野生児」にもどっている可能性がある。

う~ん、困った。早く私が家に帰らなければ今までやってきた事が無駄になりそうだ。

 

27日目

 

保育園の面接の日。かなりハイな状態で「超多動」ぶりを発揮してきたらしい。

私の病気の診断書をもっていって事情が変わった事を説明。これで文句なく入れるハズである。その足で病院にやってくる。全く同じにハイな状態でイタズラしまくっているので、主人が閉口してすぐに連れて帰っていった。

そうしたら病院から出たとたん大泣きしたそうだ。

仕方がないので抱っこをしてしばらく歩いてたら泣きやんだらしい。

全ての事にワンテンポ遅れるのねぇ。


 
28~29日目

 

私が入院した事はほとんどの人に知らせなかった。手伝いを頼んだのは私の両親だけだった。でもこの両親もじぃじは心臓が悪いし、ばぁばはリウマチで足をひきずって歩く状態だった。多分長期入院になると無理が生じるはずという事を私は予測していた。
息子は手帳を取得していて(愛の手帳3度)この手帳のシステムに「緊急一時保護」というのがある。この頃私は、再三主人にこのシステムを使うように言ったのだが、結局最後まで使わなかった。結局どうにかやり過ごしたから良かったのだけれども、自分が倒れたりしたらどうするつもりだったのだろう?

 

主人は技術屋一筋ウン十年の人なので「人を使う事」がとっても下手な人なのだ。

人に説明するのが面倒くさくて全部自分で背負込んでしまう。

非常時には融通がきかないホントに困った性格だ。

 

30~31日目

 

3回めのお泊り。もう慣れたものでゴキゲンで走り回っていたようだ。

この日は夜中に1度起きてしまって、2度寝をしたらしい。

でも大した事はなかったらしい。しかし今回私がいないことによって「睡眠障害」が起こる事を1番心配していたのだが結局ほとんど起きなかったようだ。

成長してきて睡眠が安定してきているという事なのだろうか?

 

32~35日目

幼稚園でもゴキゲン。ご飯を異常なほど食べまくっていたらしい。主人はそれを見て「嫌な予感」がしたらしい。

息子は具合が悪くなる前に必ずといっていいほどご飯の量が増えるのだ。

これを我が家では「冬眠前の食い溜め」と言っているのだが・・



36日目~42日目

主人の予感が大ビンコ!息子が風邪をひく。咳から始まり熱もでて、主人はまた足止めをくらったようだ。でも2~3日で熱も下がり「明日は幼稚園にいけるかな?」と思っていたらまた熱を出したらしい。

しかもその熱は昼間はなく夜だけでるという最悪なバターンだったらしい。

 

要するに昼間は熱もなく本人も元気なので「遊びにいく~、おやつよこせ~」と家の中で走り回ってイタズラし放題(昼寝などしようものならホッペをたたいて起こされる)

夜になると熱がでで熱性けいれんを起こしかねないので予断を許さない状態。

主人は多分睡眠はまともに取れなかったと思う。

・・私はこのパターンを今までに何度も経験してるのでわかる。

主人が病院に来たとき今後のスケジュールについて話し合う。息子の保育園が決定したからだ。しかし決まったのはいいのだが、不安定な状態で転園させるのはかなり危険だという事になる。

 

4月というのは「自閉症者」にとっては1番嫌な季節である。

とりまく環境が変わる事はもちろんなのだが、身体的にも脳波の乱れなどが起きやすい時期でとても「しんどい季節」なのだ。

息子も必ず春と秋には「意味不明の大泣き」をする。

だからできるだけ早く私が帰って関係修復しておいたほうがいいと思った。

それに病気がなかなか直らないのは「母が居ないこと」もあるのではないかとも思いはじめていた。

 

42日目~47日目

 

一週間以上具合が悪い状態が続いたのがやはり良くなかったらしく、かかりつけ医に診察に行ったら「肺炎を起こしかけてる」と言われ、毎度おなじみ○○病院に入院となったらしい。息子はこの病院に「牛乳しか飲まなくなって脱水症状起こして」と「熱性けいれん」で2度入院している。

今回で3回目だ。この記録は○○病院小児科の中で歴代2位の記録だそうだ

・・そんな記録自慢もできやしない(笑)

我が家はここをタダのホテルと呼んでいるのだか(6歳までは医療費がタダだから)

今回は主人が付添うので個室になると言われ(男の付添いの場合は大部屋には入れないらしい)私が入院していた時と同じタイプの部屋にいたのだそうだ。

・・当然差額ペット代がかかる。

 

本当に我が家はどうなってしまったのだろう?

今まで特に悪い事も起きずにきていたのでまとまってきてるのか?

さすがの主人も「厄年なのかな~」とつぶやく。

実は主人はそうゆう事は絶対信じない人!

「肺炎を起こしかけてる」は当然「肺炎」になり、なかなか良くならなかったらしく、結局6日間入院していたようだ。

入院中は点滴治療をしているので当然おしっこの量が増える。

多分トイレに行けないだろうからと紙おむつをはかせたら、息子に拒否されたらしい。でももちろんトイレには間に合わない。

・・全く親子で似たような事やって○○病院に迷惑をかけてる。


後日談だが、私が帰ってきて病院の請求書を見せて「見て見て!ほら金額同じ~」と主人が言うんだな。実は私も6日間入院していたから確かに金額が同じなんだわ。

「合わせたんだ~」・・オイオイ、ほんとかよ~。

ちなみにこの入院で主人の仕事の納期が2つぶっ飛んだらしい

・・なんまいだぶ~。

 

今回の病気が「母がいない事」が影響しているかどうかは何ともいえないところだか

環境が変わったのは確かなので影響としてはあったのだと推測している。

この場合の原因は

「母がいなくて寂しくて」ではなく

「母のいない環境に慣れなくて」である。

この違い、普通の人になかなか理解してもらえない(笑)

 

48日目

 

息子が病院にやってくる。また痩せた。息子太らせても太らせても病気になってすぐ痩せる困ったヤツだ。

私も歩けるようになったのでデイルームに行き、おせんべとお茶を食べさせる。

コレは親が選んだものではじゃない、あくまでも息子の好みだ。ジジくさいったら。

 

私の顔を見ると嬉しそうに笑う。多分私がデイルームまで歩いてきたので嬉しかったのだと思う。しばらくすると机の下にもぐりこみ、私の足を触って確認している。

ハイハイ、おばけじゃないから足はあるよ~、一応動くようになったしさ。

 

49日目

 

この日は幼稚園の終業式。

1日も通えないまま転園していくのかと思っていたのだが、どうにか1日だけ行く事ができた。たくさんの先生たちに抱っこしてもらってお友達たちが「ばいばい」してくれたそうだ。本人は全くわかってはいなと思うけど。

ここの幼稚園の2年間は本当に実りの多い日々だったと思う。ここに通わなかったら今の息子はいないはずである。今回の転園は「幼稚園側への不満」ではなく「よりよい環境への移行」だと言っていい。
実は本当に最後まで悩んでいて決めかねていたのだから。

 

50~51日目

 

この日は私が試験外泊で家に帰る日なので息子は母の実家にお泊り。

私が1日だけ帰ってきてまだいなくなったりすると、それこそ訳が分からなくなってしまうので。

この日は私を迎えに行くので時間がないために主人は実家まで送らず

途中でじぃじと待ち合わせして実家に連れてってもらったらしい。

いつもとパターンが違ったので息子はその日に主人がお迎えがくるのでは思ったらしく

夕方になったら少し泣いたらしい。

この日の夜あれだけ嫌がっていた実家のお風呂に自分から入りたがったらしい。

入院していたので当然お風呂には入っておらず、退院したあとも咳がででいたので主人は入れなかったらしい。

だからよっぼと身体が痒かったらしい(笑)

 

こうゆう所が一見自閉症児っぽくないところなんだけど。

いわゆる「論理的思考能力」を持っているので、自分に今必要な事を選択する事ができるのだ。この場合は「お風呂が恐い」より「痒い身体をどうにかしたい」のほうが優先順位として高かったんだろう。

息子はこの考え方ができるおかげで自閉症特有の「パニック障害」がほとんど起きない。

 

退院1日目

 

退院の日。主人と病院にやってくる。「かぁか、一緒にオウチに帰るよ」と言ってもニコリともしない。顔がこわばっている。

いつもと違うというのは雰囲気でわかるのだけど、それが何だかわからないので不安なのだろう。いつもの多動すら出ない。

これはコッチにとって好都合だったのだけれど。

 

主人は私の荷物を持ってるので、息子に動かれるとそれこそ大変だから。

看護婦さんに「さよならしなさい」と言ったら固まった顔のまんまおじぎをした。

一応私の指示には従うのね。

タクシーに乗って帰ったのだかその間もとってもおとなしい。不気味だ・・

 

帰ってきて、私がいつもの定位置に座ってもなかなか寄ってこない。

すっごい困った顔して様子を伺っている。

主人にはベッタリひっついているのだが、私のところには・・来ない。

やっぱこうゆうところは「筋金入りの自閉症」だわ

(でも医者は自閉症だと言ってくれない)

私も心得ているのでしばらくそのまま放っておく。

 

4時間くらい経ったときだろうか?主人と私が台所で立ち話をしていた。

そうしたら突然大泣きしたのだ。

びっくりして「どうした?」って私が駆け寄ったらちょっとためらったあとで、私にしがみついて大泣きした。

それから私の顔を見て泣いて、また見て泣いてという事を繰り返した。

その時気がついた。

「そうか、顔面麻痺で変わってしまった目が気になるんだ!」

 

わかりやすく息子の行動を説明すると

 

私は台所にいて息子には顔は見えなかった。

そこに母の声が聞こえた。

だから大泣きした。

すると「目がちょっと変な母のニセモノ」のがやってきた?!

でも母なのかな~?いや、ちがうのかな~?と悩みながら泣いていた。

 

ホントに面白~い!!

夜、ゆうゆう先生が退院の噂を聞きつけ来てくれる。

息子は先生の顔を見ると、「満面の笑みでニッコリ」して抱っこされたらほっぺにすりすり~。

・・・・そして私に向かって「ばいばい」をした!

やるんじゃないかな~?って思ってたんですけどねぇ。

知識のない母親ならこの時点で即、幼児虐待だな。

自閉症の勉強しといてよかったわ。

 

2つも納期がぶっとんでいる主人は当然の如く仕事が山積みで、その日の夜から仕事をする事になる。当然息子は私とふたりで寝るのだ。

大泣きしてからは少し私にもひっついてくるようになったのだけれど、以前のようにはいかない。一緒のふとんで寝ていても何度も起きて私の顔を見て、ニコリともせずにまだ寝ようとする。

そのうち突然泣き出す始末……何度も言いますが私は正真正銘の母親ですっ!

 

仕方がないので「あめふりりんちゃん」を唄ってやる。

すると泣きやんでノリノリで踊る。

歌はどうやら私の存在をアピールするのには効果的だったようだ。

 

退院2日目~10日目

 

昨日よりは少し落ち着いた感じだ。でもやっぱり目が気になるようだ。

左目をバンバンと触っていったりもした。

「ここがへんなの~」って言いたいらしい。

でも眼鏡をかけているとあまり違和感がないようだという事を発見!

朝からずっと眼鏡をかけるようにした。視点がかわるからかな?原因は不明。

それでもゴキゲンなめになったら・・歌を唄う。

 

でも帰ってきてわかった事なのだか、私の呼吸器はあまりよくなっていないらしく

歌を唄うと息が続かなくってうまく唄えないししかも音程まで外す。

それにずっと唄っていると胸が苦しくなって危険。

でも唄わないと息子が危険・・という日々が続く。

 

ただ主人と一緒にお出かけして帰ってくると、まず私を探して私がいるのを見つけると嬉しそうに笑う。いつまた居なくなってしまうかと思ってるのだろう。

要するに私は信用を失ってしまったのだ。

それは今でも続いているし、もしかすると一生続くかもしれない。

 

5年間一緒に暮らしていても2ヶ月で信頼を失ってしまう。

だから自閉症児を持つ母親は本当は入院などしてはいられないのだが。

やっと普段の息子に戻ったと思えたのは帰ってきてから2度目の週末だった。

私も主人もいて、やっといつもの家だと思ったらしい。

主人もそれまでは忙しくってそれどころではなかったから。

実はそれは保育園入園前日だったのだが

・・どうにか間に合ったようだ。

 

ドラ&ドラパパの クレイマー・クレイマー日記①

(2001.8.29記)

 

自閉症児が2ヶ月間、突然母と離れて暮らした記録です。

 

1日目

普段通りに幼稚園に登園する。午後私の入院が決まったので、幼稚園に電話して急遽5時まで延長保育をお願いする。

夕方幼稚園からまっすぐ〇〇病院に主人とともにやってくる。

「かぁかは病気、点滴、ここでねんね」と一応説明する。

ここの病院は息子自身が入院していて看護婦さんも優しいので本人にとっては「好印象」の場所なのだ。

息子自身、点滴も経験しているのでなんとなく理解はしてくれたと思う。私に「ばいばい」をして家に帰った。だか家に帰ったら片時も主人の側を離れなかったらしく、トイレに行くのも大変だったらしい。

やはりかなり不安だったようだ。

 

2日目

病院にやってくる。はっきりいってここの病院は息子にとっては「遊び場」なので、押さえるほうが大変だ。特に変化はない。まだ状況が飲み込めていないのだろう。

 

その日の深夜、私が入院している病院に主人から電話。

「息子が喘息をおこしたので連絡してくれ」と看護婦さんが伝言してくる。慌てて私がPHSを取り出したら看護婦さんが「携帯電話は困る」という。

全身麻痺でどうやって連絡とれっていうのか?!

キレそうになったけど「子供が熱性けいれんをおこすかもしれないんです。見逃してくださいよ」と言ったら去っていった。

電話をしたら「今のところ熱はない、セキだけ」という。

息子を見ていないので判断ができないから、とにかく抗けいれん剤(座薬)を入れてせき止めを飲ませるように言った。

 

3日目~9日目

やはり朝になったら熱はでできたようだ。次の日かかりつけ医に連れていったら、かなり喉が赤く吸入をするように言われたらしい。

息子は最近とても力が強くなってきて、私では羽交い締めできなくなっていて吸入はしばらくしていなかった。だが主人の腕力からは逃げられなかったらしく、今回はおとなしく吸入したらしい。

熱は上がったり下がったりだったようだ。

全く食べ物を口にしないので、ばぁばが「ハンガーストライキしているみたいだ」と言っていたらしい。息子は具合が悪くなると食べ物を口にしなくなる犬みたいなヤツなので、その点はいつも通りだから心配はしなかった。

結局風邪は一週間続き主人の仕事はこの週全滅だったそうだ。

最初の週から出鼻をくじかれた。

 

この週は私の転院先の事では主人も病院に来なければならず、その間は家で私の両親に息子をみてもらうという事になった。

だが主人が出掛けるときに何とも哀しそうな目をするのだそうだ。

息子は特にじぃじの事は大好きで、いつもなら平気でばいばいするはずなのに。

やはりいつもとは状況が違うようだ。

 

私の入院が長期になる事が予想された時点で、息子をこれからどうしようという事になる。実家にずっと預けるという方法も考えたが、息子にとって、なるべくいつもと同じ生活のほうがいいのではないかと思い「平日は幼稚園に夕方までお預かり」で「週末は横浜の私の実家にお泊り」させるという事に決める。

 

幼稚園は大好きなので通わせないとそれこそストレスがたまって「睡眠障害」を引き起こす可能性がある。それだけは避けたかった。でも私には何故か今の息子なら乗り切れるという予測はあった。

かなり図太く成長してきている今ならどうにかやり過ごせるかもしれない。

逆にいい刺激になるかもしれないとさえ思った。

これは単なる母親のカンだったのだが。

 

主人のお仕事はいわゆる「技術屋さん」だ。納期があっていつもそれに向かって仕事をしている。とーっても小さな会社でいろいろと親身に考えてくれるので、お休みをする事に問題はないのだが、主人の仕事を代わりにできる人はいない。

という事はお休みすれば、その分後が大変という事なのだ。
・・そして私の長期入院は、主人の首はどんどん絞めていく事になるのだ。

 

詳しい事情は別の項目に書く予定だが

 

hii-1701.hatenablog.com

 

実はこの時私は来年度から息子を保育園に転園させたいという意向を持っていて、既に申し込みをしていたのだ。

でも入れるかどうかは難しい状態だったし、本当にそれでいいのかとも悩んでいた。

そんな折りに私はこの病気になったのだ。

母が入院していれば文句なく保育園には入園できる。

だから私には「神の啓示」に思えてしまったわけで。

私がこの病気になっても実に平静でいられたのは、多分このおかげだったのだと思う。

でも悩みすぎてギランバレーになったという風にも考えられるんだけどねぇ

 

ギランバレーは「ある遺伝子を持っている、風邪をひく、ビタミンが不足している、しかもとっても疲れている」などの条件が重なって起こるという説があるらしい。

しかもほとんどの人はその条件に当てはまっていても発症はしない、稀になるのだ。

何しろ10万人に1~2人の確率だからね。

 

10日目

 

初めて大学病院のほうに息子がやってきた。私の顔を見ながらご機嫌でイタズラしまくっていたのでちょっと怒ったら、一瞬だけ「ふにゃ」っとした泣き顔をした。

どうやら私が動けるかどうかを確かめていたらしく、イタズラしても側にきてくれないのがわかって哀しかったようだ。

1番のお気に入りはグロブリンの点滴をしている機械。

棒だし、上にはなんかスイッチがあって楽しそうに見えたらしい。

何度もそっちにいってみんなに怒られる。

そのうちみんな怒るのが面倒になってきたので、応接セットの椅子で要塞を作ってとおせんぼしてしまう。

応接セットも意外なところで役に立つものです。

・・・しかしどこにいっても息子は息子だな(笑)

主人はこの生活になってからTVでよく流れていた「明日があるさ」をよく口ずさむんでいたらしい・・辛かったのねぇ。

 

でも実は今年主人は男の大厄なのだ。その厄を私がしょったのだと思う。

だからちょっとくらい大変なのは「自業自得」なのだ!

私は自分の厄でもないのに痛い思いをしたのだから絶対に割があわないぞ!ふん!

 

11日目

 

今日から幼稚園に復帰。かなりイタズラが激しかったようだ。

注意されると怒ったり、思い通りにならない事があると泣いたりもしたらしい。

明らかに情緒不安定だったようだ。しかも珍しく幼稚園でお昼寝をしてしまい、当然その夜寝たのは丑三つ時だったらしい。

 

主人は私がいつも遊んでもらっているMさんの掲示板に頻繁に登場するようになる。
私は「しばらく行けないという事だけポスペしといて」と言ったのだが、何度も私の症状を書き込むようになって 、そこの掲示板の奥様たちに結構人気を博するようになっていくんだな(笑)

多分みんなが書いてくれるレスをプリントアウトして病院に持ってくる為に書き込んでくれてたと思う、最初は。

・・けどすぐに自分が面白くなって後半は書きたい放題だったみたい。

入院中に励ましのメッセーシをくれた皆様、本当にありがとねー!

(びいママさんとこからドージョくんもきてくれた)

本当に嬉しかったよん♪

 

ドージョくんエピソード

病院のごはんは、おかずの量が少ないし、味がいまいちだったりするので
ごはんが残りがちになってしまうのです。


辛いもの好きな私が「モモヤノ トウガラシノリガ タベタイ」と主人にメールしたら「それって海苔売り場にあるの?」とたわけた事を掲示板に書き込んで、みんなに「違う~!」と突っ込まれてたようです。

 

・・・でもさ、そしたらぴいままさんとこからドージョくんがやってきて
主人に教えてくれたのです。
このドーショくんというのは、掲示板のお友達のお子さんが大きな手術をした時に、ネットのお友達で作った童話の登場人物です。

絵はびいままさんのモノです。びいままさん、ありがとう! 

 

12日目~15日目

 

特に変わった事はなかったようなのだが、幼稚園で突然意味もなく泣き出す事が何度かあったらしい。家に帰ってきても動きが悪く、だらだらとしていることが多くいつもの息子とは違うという印象だったようだ。

私がいないという変化に脳がついていかないのかもしれない。

私がいないので1番困るのは「食事」だったと思う。幼稚園には週2日お弁当の日がある。でもそれはA先生が自分の分と一緒に作ってくれると言ってくれたのでお願いしたし、朝はパンなので買ってくればいい。やはり問題は夕食だったと思う。


実は主人の会社は自宅から近く、今までもごはんを食べに帰ってきていた。
だからお昼休みにおかずを買って家に帰ってお昼を食べ、お米をといでまた会社に行くという事をやっていたようだ。

「ひじきの煮物」「たこの酢の物」「ぜんまいの煮つけ」「ブリ大根」。こういったいわゆるおふくろの味が息子の大好物だ。でも今はおふくろの味もスーパーに売ってるから便利。どうやらそうやって乗り切ってきたようだ。

ちなみに「鳥のナンコツ」「れんこんとごほうの素揚げ」「もずく」なんて居酒屋メニューも大好き。

・・・・そしてカレーライスは食べない。どっかの頑固オヤジみたいだ(笑)

 

16~17日目

横浜にお泊りに行く。お泊り自体は私と何度もしていてずいぶん慣れているはずなのだが、実は親と離れて1人で泊まるのは生まれて初めてだ。

最初やはりかなり泣いたらしいが諦めのいいやつなのでどうにかお泊りできたらしい。

ただしやはり眠りが浅く何度か夜中起きたそうだ。
次の日主人が迎えに行くと、顔を見たとたん大泣きして、それから祖父母に向かって何度も深々と頭を下げて回ったらしい。

息子の行動を解説すると

「大変お世話になりました。ボクは父と帰らせていただきます」って事だと思う。

・・・大爆笑だったらしい。

 

18日目~19日目

 

息子が病院にやってくる。まだそんなに雰囲気が変わっている感じはない。私を見てニコッと笑う。そして私と反対の方向を見て突然「かあちゃんかあちゃん」と何度も言う。私が無理矢理息子の顔を覗き込んで「は~い、かあちゃんはここにいます」と言うと嬉しそうに笑った。

でもこのあたりから病院に行った日は、家に帰ると必ず不機嫌になって大泣きしたらしい。この状態は私が退院するまで続いたそうだ。

 

考えられる理由は、私が病院にいたから家にもいるのではないかと思うのか

病院で私に逢ったので家に帰ると私がいない家の風景が不自然なので泣いているのか。

・・・・ドラのみそ知る。(他の理由を思いつく方、お知らせ下さい)

 

幼稚園でもやはり機嫌が悪かったらしい。ちょっと担当の保母さんがいないと大泣きしたりしていたそうだ。このあたりで今置かれている自分の状況を把握できるようになったのかもしれない。私が帰ってこないという現実を。

・・・・20日かかるのかぁ?

 

20日目

この日は幼稚園の園外保育で水族館に連れていってもらったそうだ。

やはりこの日も朝も機嫌が悪かったようだが、水族館に着いた途端ゴキゲンが直ったそうだ。さっすが「新しい場所好き」。イルカショーを真剣に見ていたらしい。

イルカを見ていたのか水しぶきを見ていたのかは不明、多分後者だと思う。

 

21~22日目

 

この日あたりから少し安定してきたようだ。幼稚園ではいつもと変わらない感じだったそうだ。でも家ではやはり主人にべったりでとても寂しそうにしてたらしい。

そういえば私が入院した際にゆうゆう先生だけには事情を説明してあったのだか、病院がばれてしまうと面倒になるので「病院名はいわないでね」と主人に言ったのだ。

それが先生に伝わった時に何を間違えたのか「病名はいわないでね」になってしまったらしい。これが誤解の始まりで。
それで先生が口を閉ざして多くを語らなくなってしまったから「噂が噂を呼んで」なんかとんでもない重病になっているという事になってしまったらしい。

 

歩けるようになってあるお母さんに病院から電話したら「しゃべれるの?元気じゃん!やだー、もう脳梗塞とかで半身付随と思ったよ~」

・・・・おいおい、人を重病人にするなってば(あっ、重病人だったっけ?)

「いや気になってたんだけどさ、聞いちゃいけないような雰囲気だったのよ~」

実はここにはもうヒトツ誤解される要素があったのだ。

主人は「用件しか言わない男」で特に聞かれなきゃ答えないヤツだ

(口数が少なくて誤解を産みやすいタイプ)

だからお母さんたちに「聞かれたら答えた」のだろうけど、ほとんどの人が気をつかって話しかけてこなかったから「やっぱり大変な事になってるんだわ」とまた話が大きくなっていったらしい・・男って動物は困ったもんです。

 

23~24日目

 

2回目の1人でお泊り。今度はちょっと泣いたくらいだったそうだ。ただしお風呂に入れない。うちの実家は一軒家なので大きめのお風呂なのだ。赤ちゃんの時は平気で入っていたのに、最近何故かお風呂場を恐がるようになっていたのだ。多分薄暗いのが恐いのだと思うのだが。無理強いしてお泊り自体を拒否されると困るので、お風呂は入れなくていいと言っておく。


実家に行くと一生懸命コミュニケーションをとろうと頑張っていたようだ。

じぃじにかなり遠距離のお散歩にも連れていってもらったらしい。

その時の帰り「不二家」に連れて行ったらショーウィンドウにあったケーキ全部を指差していき、じぃじの顔を見てニコッとしたらしい。

・・・・はいはい、ウチは貧乏だからケーキも食べさせてませんよ~だ。

 

主人はこの週末Mさんの掲示板で

「オレは和製キムタクだ(自分はキムタクに似ていると言いたかったらしい)」などと、訳のわからない事を口走り 、みんなに「キムタクは最初から和製だよ~ん」とツッコミを入れられてたらしい・・・・だいぶ疲れがたまってるな

ギラン・バレー日記⑥ 退院後の経過

(2001.8.29記)

 

2週間後

 

退院してから最初の外来。まだひとりで外出するのは気分的に恐いので、主人をお供にして行く。電車に乗るのは座れれは大丈夫。ただし、人ごみはかなりの恐怖だ。

飲んでいたステロイトはそろそろ終了しようという事になり、それから1週間ほど飲んで終わりになる。それからMRIのデータがあまりよくなっていないので、今度検査を受けにいってきてと言われる。
退院して感じたのが、何故かはっきりと体調が悪い日があるのだ。

主治医の見解は「気候によって左右される事もある」という話。入院していると環境が一定しているので感じないのだが、家に帰るとやっぱりそうはいかないから感じるのだろう。


1ヶ月後


慌てて退院してしまったので、担当のリハビリの先生の診察が入院中に受けられなかった。そのせいで病院のシステム上初診受けないとPTのリハビリを受けらなくて

1ヶ月ほどリハビリに通えなかった。

・・・息子が体調を崩したり、私も1人ではまだ通えない状態だったから。

それでやっと病院に行けるようになったのは、1ヶ月近く経ってからだった。

リハビリの初診を受けて簡単な診察をしてもらったら、なんとOTにも診てもらえる事になった。入院中はOTはつけてもらえなかったのだが、やはり「手の震えがある」からだろう。ラッキー♪

それから週1回、PTとOTに診てもらえる事になる。週1回リハビリに通うように。

担当のOTはちょっとスパルタ系の男性(本人はそう言うと、とても怒ります)

でも毎週行く度に新しいメニューがでてくるおもちゃ箱のような人です。

OTによると「ギランバレーの場合は、『手内筋』という手のひらの中にある

ちっちゃい筋肉がやられる場合が多い」のだそうです。

特に女性は末梢神経がやられて足が痺れたり手が震える傾向が強いらしい。

だから集中的に「手内筋」を鍛えられるように、生活の中に入れられる動作をたっくさん教えてくれます。


PTのほうは、なるたけスクワットをできる方向に向けてのメニューに変更。

つま先立ちをやるようにと指示される。


1ヶ月半後


PTのメニューが変更になる。

 

ゴムを輪っか状態にして土踏まずあたりにひっかけて開脚をする。


うつぶせになって、足を伸ばしたままで上げる。


うつぶせになって、膝を曲げる


座った状態で反対側の足を触りながら、足を膝まで上げる。


手芸店に行って、幅の広い強度の強そうなゴムを買ってくる。

最初ミシンで縫おうと思ったのだが、調子があがってくれば長さの調節をする事になると思い安全ピンで止めて作った。それをPTに長さ調節をしてもらい、家でもソレを使っている。


歩行もかなりスムーズになり距離も1㌔くらいなら歩けるようになる。

買い物も近所に1人で行けるようになり自信もついてくる。私は以前からリュックをしょっているのでその点は楽に買い物ができる。

ただし「あら、豚こま¥48お安いわ!1㌔ちょーだい」なんて、昔のようにあれもこれも買ってしまうとあとで悲惨な目にあいます。

・・・・一度たくさん買い過ぎてふらふらになって、どうにか家にたどりついた事があります。だから買い物する時は「あと何グラムくらい買えるかしら?」と自問自答しなければいけない。

 

やかんも満タンにしても持ち運べるようになる。コーヒーカップも大丈夫。しかし相変わらず字は下手だ。

顔面麻痺はほとんどわからなくなっているが、なんとなく重い感じがある。

もちろん左目のウィンクはできない。

膝は少し曲げられるようになってきて、どこかにつかまっていれば落としたモノも拾えるようになってきた。

 

2回目の神経内科の診察。1人で病院に行く。この日は午前中はリハビリ、午後はMRIの検査をしてから診察だった。
私が部屋に入っていっただけで、かなり良くなっているのはわかるみたいだった。
でもまだしゃがめないと言うと「う~ん、そっか。まだか~」と主治医は残念そうだった。・・・・・目指せヤンキーの姉ちゃん!


息子の療育関係の集まりに出掛ける。電車とバスを使って座っていけるので、大丈夫だと判断してだったのだか。やはり子供相手なので少々ハードワークだったみたいで

それから2~3日調子が悪くなる。まだあまり無理をしないほうがよかったみたいだ。


リハビリ担当医の診察。初診の時とは別の先生です。この先生が私のリハビリ担当医らしい。

診察をしたあと「ジグザク歩きをしてみて」と言われてやったら、私がおっかなびっくりだったのがとても面白かったらしく「まだ恐い?」と笑われてしまった。

はい・・・恐いです。

意識的にやってみてねと指示される。出掛けた時少々具合が悪くなったので

「出掛けて体力をつけるべきか?地道にリハビリするべきか?」と聞いてみた。

すると「歩行というのは局部的には筋肉強化はできないからね。歩いて疲れが次の日に残るようなら、リハビリ優先だろうね」と言われる


洋服を着替えるのにずっと椅子を使っていたのだが、壁に寄り掛かってなら何とかできるようになってくる。


ある日買い物に行くと、おいしそうなスミイカくんがいた。
イカフライは主人の大好物なので、何のためらいもなく買ったのだが後で思った。
・・・・このイカ、誰が皮を剥くんだろう。

それからイカくんと格闘して一匹めまではよかったんだけど、二匹めになったら全く手に力が入らなくなってしまった。仕方がないのでちょっと歯を使って根性で剥いたのさ。
主人に「途中から歯で剥いたんだけど」って言ったら「別にイカフライが食べれれはいいけど?」(笑)

でも、もうしばらくはイカフライはしないぞ!


2ヶ月後


リハビリにいいと思って、こねるだけでできるパンを作ってみる。

チーズ味のボンデケージョというバンです。息子、コレが大好物なんだわ。

結構大変だけど、こねこねしてたたきつけるのは結構気持ちがいいです。


夏の気配がやってきた。我が家は暑くなるとアイスコーヒーを作る。

当然氷がたくさん必要になるので、夏は6コの製氷皿が活躍する。だか製氷皿を・・・ひねれない…こんなとこにも盲点があったか。

OTに話すと「やっぱり手内筋」と言われる。


少し遠い所にバスで買い物に出掛ける。昼食の休憩を入れながら4時間くらいの

お出かけがひとりでできた。次の日も疲れは残っていなかったので、かなり体力はついてきている感じ。

でもまだ体重が増えない。毎年夏になると痩せてしまう私としては、今のうちに1㌔でも太っておきたいのだけど。・・・プロテインもちゃんと飲んでるんだけどなー。


左目が重たい感じがなくなってくる。全く気にならない。

ただし本を読んだりバソコンを使っていたりすると、涙がででくるのだけど。

落としたモノもつかまらずにどうにか拾えるようになってくる。膝はちょっと曲げられるようになる。

着替えが壁によりかからなくてもできるようになる。ただし、スボンを履くときに左足が上がらないので少し手で持ちあげる。


病気になって以来、初めて風邪をひいたようだ。私のギランバレーになった原因は、「多分風邪だろう」と言われてたので主人に「ねぇ、なんか風邪ひいちゃったみたいなんだけど?」と言ったら「10日後に身体が動けなくなったら、倒れる前に自分で☆☆病院に行ってくれよな」ですと!!

・・・・ふん!なんて冷たいオトコなんだ!


ポタンを付けなければならなくって、久々に裁縫をしてみる。いや~、コレは大変。

特に針に糸を通すのが大変でした。実は針に糸をを簡単に入れる道具もあるんだけど

あんまりできないんで頭にきたから根性で入れました。

縫うのはなんとか大丈夫。


階段を手すりにつかまらずに登れるようになる。降りるのも大丈夫なようなのだか

精神的に恐いので少しつかまる。


何故だか突然、びっくりするくらい足の調子がよくなる。もちろんずっと歩いているとだるくはなってくるが。疲れた時に転ぷんじゃないかという不安はなくなる。

「考え事をしながら歩いている自分」にびっくりする。

下を見ないで普通に歩いてるって事ですね。

・・でもその反面、手が絶不調。力はついてきてるけど、何故か脱力感がひどい。

 

以前から「鍵盤楽器は手のリハビリに有効」とOTに勧められていた。

私は以前演奏する仕事をしていた事があるので、ピアノとエレクトーンが弾ける。

でも私にとってそれらは精神的な支柱であって、コレが弾けないとなると精神的ダメージが大きいと自分でもわかっていたので、ずーっと触らないで過ごしていた。

でもいつまでもそう言ってられないし、手のほうが思ったように良くならなかったので

練習をはじめる事にした。・・やっばり絶望的に弾けません。

特に左が全然だめです。

私は主にジャスを弾いていたので、左はほとんが和音を掴まなくてはいけないのだけど

結構コレが力がいる。少しずつ毎日やるようにする

 

3ヶ月後

 

神経内科の診察。「せんせー、足のほうは絶好調」と報告(笑)

「スクワットできる?」と言われてやってみたら、どうにか椅子を持ってなら立ち上がれた。・・まだできない時もあるけど。
でも立て膝した状態から立つ事は90%以上できるようになっているので、本当に身体は楽になってきた。
手が絶不調と言ったら「う~ん、確かに左の親指がちょっと弱いな~」
しっかしいつもスゴイなぁって思うけど、神経内科の診察って全部「力がとれくらい入るか」というのを手で確認して診察するんだよねぇ。

しかも数値でカルテに記入するのよ。本当に経験がモノをいう世界だわ。

私自身もよくなってきている事を実感していたので、実はずっと気になっていた事を質問してみた。
「せんせー、また自転車乗れるようになりますか?」

そしたら先生「大丈夫だよ~」って言ってくれました。
実は、私コレが1番心配だったのです。自転車って全身のバランスが良くないと乗れないでしょ?もちろん絶対という事はないけどね。嬉しかった♪

 

リハビリ担当医の診察。神経内科と同じ説明をする。

すると「手に脱力感があるという事は、使いすぎって事もあるからね。検査してみる必要があるかも?」と言われる。

○○先生(ひいろ@神経内科医)は検査しようっていわなかった?」と言われる。
・・・言われませんでした(笑)

でも検査は嫌いだもん。退院してもまだ言ってる私もスゴイ?「とにかく脱力感が続くようなら、少し家事は控えめにね」と言われる。
・・・って事は家事をさぼっていいって?

でもいつもさぼっているので、コレ以上はサボれないと思うわ。

 

4~5ヶ月後

 

ある日突然、手も足もぐんとよくなった感触があった。足が軽い~♪

人ごみもスイスイっと掻き分けて歩けるようになり精神的にも安心する。
手の震えも突然ぴたっと止まり、手を開いても震えるのが少なくなってきている。
お味噌汁の入ったお椀を、両手にひとつずつ持って運べるようになる。

ただしやはり調子の悪い日があり、そうゆう時は結構ぷるぷる震える。
神経内科の診察の時に報告をしたら「ある日突然?」と怪訝そうな感じ(笑)
ギラン・バレーの症状としては、確かに不思議らしい。

でもほんとだってばよー!私もびっくりしたんだからさー。

 

足の調子もよくなってきたのだけど、出掛けた時不便な事は結構多い。

例えばバスに乗る時、立っているのはちと辛い。電車と違って揺れが結構キツいので。

なので白い目で見られるのを覚悟で、シルバー・シートに座っていた事もあります。

見た目にはわからなくても、一応身体障害者に片足突っ込んでいるような状態なので許してください。

そしてもうひとつ困ったのが和式のトイレしかない時。

しゃがみこんでいる事自体が辛い状態なので、もちろんそのままじゃあ立上がれましぇ~ん♪

「どこかに」つかまって立ち上がらなくてはいけません。

1番悲惨だったのが、見るからに汚い公園のトイレ。

その上どこにもつかまる所がなかったりすると・・・もう悲惨です。

仕方がないので下に手をついて立ち上がるのだけど、そのまま後ろにコケるよりはましなので。

まぁ最近は公園に障害者用のトイレが増えてきてるので、あれば迷わず入っちゃいました。


6ヶ月後

 

リハ医の診察。神経内科医と同じく「突然良くなった」と言ったら不思議そうな顔(笑)

まあ、実際に見たひいろ@OTも不思議がってたからなぁ。
手も足もかなり良くなってきているので、神経内科の先生の診察を受けてから、これからの通院をどうするか決めようという話がでる。

・ ・おおっ、それほど良くなってきたという事なのねー。
リハが終了すると先生たちに逢えなくなるのが、ちょっと寂しい気もするのだが
大学病院は混んでるからねぇ。

良くなった人は、さっさといなくなるのが本筋でしょう(笑)

 

突然病気以前から悪い膝が痛みだす。実は高校生の体育の授業の時、すっ転んで膝に血が溜まって以来癖になってしまっていて、ちょっとした拍子に膝の関節に血が溜まってしまうのだ。レントゲンを撮影すると関節のところが摩耗していて、しかも骨片まで浮いている状態。
そんで「この骨片が関節の中に入ると痛いぞ~」とか整形の医者は脅かすんだよ。

手術するのも大変らしく、どこの整形に言っても「筋肉強化の運動をしなさい」と言われて、痛み止めを出してもらい安静にするしか方法がないのだ。

 

今回また痛くなった原因は、身体の麻痺が取れてきて思ったように動けるようになってきたので調子こいて歩いていたから(笑)
実はこの時期、息子の小学部の就学情報を集める為にいろんなところに出掛けていたので、無理をしすぎたという事なのでしょう。こうなるとリハビリもしばらくは休止。

足の痛みがなくなるまでは仕方がありません。
でも困った事に今までは一週間くらい安静にしていれば治った膝が今回はなかなか痛みが取れない。でも出掛ける予定はたくさんあったので、足を引きずって外出していました。

 

リハ医の診察の時に「とにかくあんまり無理しないように」と言われ…
でもねぇ。息子の今後を決定するかもしれない事なのでそうもいかんのですよ~。

でもとにかくこのままでは治りそうもないし、以前にもらっていた湿布薬も切れてしまったので「先生。病院行くの面倒だから薬出してくれます?」とリハ医に頼んで薬を出してもらいました。

だってわざわざ別の整形医の所に行くのも面倒なんだもーん♪
今までは湿布薬だったのですか、同じ薬なのですがぬり薬を処方してもらいました。

そしたらコッチのほうがよく効くみたいで、それから1~2週間くらいでかなり症状は緩和しました。

 

7~8ヶ月後


ギラン・バレー友達のnaoさんが、掲示板で「フェイスリフトパックはお顔を引き上げるのに効果的よん♪」という話しをしていた。
そうゆう話にはすぐ飛びつく私(笑)

・・すぐに試してみる事にしました。
通称「ゾンビパック」と言われていて小顔になる効果があるという代物なのだけれど

(乾いてくると顔がしわくちゃになってくる)、使用した時点では結構効果アリな感じでした。でもしばらくするとまた元に戻ってしまうような気が…
私の顔面麻痺は左だけかなりひどかったのだが、現在は全くわからない状態ではあります。ただ、以前よりなんとなく頬がたるんでいるような気がするのです。
でも実は病気以前に既に○のせいで以前からたるんでいたかも?

そんで病気になったせいで気になっているだけ?

・・・今さら比較対照がができないから何ともいえない!


気候が寒くなってきたら、今度は突然朝、指が動きにくなるようになった。

指が曲がらない事があったりする。もちろん普通の指だって寒くなれば動きにくくなるので多分そのせいだと思うのだけど。結構不便だったりします。

息子と久しぶりに公園に行った。

重力不安がある息子、ブランコを上手にこげません。
でもいつの間にかちょっとだけこげるようになっていました。こわごわだけど。
「あら~、すごいわぁ」と喜んでいたら、私が・・・・のっ、乗れないっ!
まず足を前に出した状態で静止しているのが辛い(ふとももがプルプルする)

そしてこぐのも腕の力が弱くて長時間維持できない。

そして大きくこぐと精神的に怖い。

バランスがおかしいと、ブランコも乗れないのね~。
身体バランスの悪い自閉症児がブランコに乗れないという事は、ごく当たり前の事なのだと身をもって体験した母なのでした。

 

ある日OT室にいくと、ひいろ@OTが「今日はぐらぐらゲームで勝負だ!」とか言う。・・・・はぁ?
人形を指でつまんでそーっと乗っけるのって、結構辛いのよー。

1回戦は私の負け。ちくしょ~と思ったので負けない戦法に変更。
ひいろ@OTはとっても前向きな性格なので、自滅に追い込むように(笑)
その上言葉でブレッシャーかける。

先生「僕は心理戦弱いんだよ~」と一言。
そして勝利しましたわ~♪ほっほっほっ。

本当にリハ室に何しに行ってるんだか…

 

神経内科の診察。全体的に十分よくなってきてはいるのだけれど、寒くなってから手が動きにくいという事を報告。

先生に「実は実母がリウマチなんですけど朝のこわばりみたいで」と言ったら

「しばらく血取ってないから取っていって」と言われ墓穴を掘る。

あとMRIの検査の予約も入れる。

 

9ヶ月後

 

息子と久々に「ふたりでおでかけ」しました。

以前に比べて息子自身が落ち着いているので、どうにか無事生還できました。
でも前に押されたり引っ張られたりするのは、またふんばれるのですが

(もちろん辛いけど)後ろや左右や斜めが弱い事が判明。

 

あとは走れないので、危ない場所で走られるのがとっても危険。
でもこの状態であれば、4月から通う予定の養護学校の送り迎えは私ができるという見通しがたちました。これだけでも安心材料です。
私の現在の状態では、もちろん障害者の規定には入らないでしょう。
でも家族が障害者であると、そういった些細な障害でもネックになってしまい、生活で困る事がたくさんあるのです。

でももちろん誰も助けてはくれません。・・・どうにかならないもんなのか?


バランスが悪いという話しを聞いて、PTがふにゃふにゃっとしたシートの上で、バランスを取るメニューを加えてくれました。その上に乗って、前後左右に身体を揺らしてバランスを取るのだけど、後ろや斜めがやっぱり怖いです。

なので息子と療育センターなどに行くと、トランポリンがあるので「今度ちょっと一緒に乗ってみようかしら?」などと話す。

うーん、親子で感覚統合訓練をしている?

あと引っ張られた時に持ちこたえられないという事で、自宅メニューとして「腹筋」を追加。私はもともと腹筋は強くないので、自分ひとりではできません。

「寝て膝を立てて、右手を左足につける(左手は右足)」という腹筋メニューをする事になりました。これならどうにかひとりでもできます。

それに右側と左側の腹筋が効果的に鍛えらるらしいです。

・・でもとっても辛いっす(笑)

 

10ヶ月後(発症1年後)


リハ医の診察。横からの衝撃に弱い事を話すと「箱型のブランコに立ち乗りしてバランスを取るのは、いいリバビリになるんだけどねぇ。でもあれって、今危ないからないんだよねー」と話す。

トランポリンに挑戦しようかと思っていると話したら、「無理だからやめなさい」と言われた(笑)


神経内科の診察。MRIの検査結果は「影、いなくなってるよ~」との事。血液検査も問題なし。なので次の診察は「私が気が向いた時に」という事にしてもらいました。

4月から息子が就学すると、私もしばらくは学校に一緒に行かなければいけないですし

自由に動ける時間も今より少なくなります。

なので予約入れても行けない場合もあると思うので、お願いしてそうしてもらいました。まぁ完全に元に戻った訳でもありませんし、リハ室のほうにも通いたいのはやまやまなのですが障害児の母親は結構忙しいので・・仕方がないでしょうね。


発症1年後の状態


歩行は全く問題なし。小走りも無意識にやっている時がある。階段も登るのは問題なしだか下るのは手すりがないと不安。特に角度のある階段などは怖い(ファーストフードの階段とか)

しかし掴まらなくても下れるだけの力自体は戻ってきているようだ。

しゃがみこんでそのままの姿勢を少しなら保つ事ができる。もちろんしばらくすると足が震えてくるが。そのままどこにも掴まずに立上がるのは、出来る時とできない時がある(50/50くらい)

着替えをする時などは殆ど問題がないが、未だに左足が完全に上がらず、ちょっと足を持ち上げて着替えなくてはいけない。


手は調子がいい時と悪いときがある。症状が行ったり来たりというよりも、どうも気候や体調に左右されやすいようだ。もしかすると精神的なものも関係があるかもしれない。

相変わらず字は上手に書けない。とはいっても2~3行であれば、どうにか見られる文字が書けるようにはなってきた。いわゆる持続力がないようだ。

だからまだまだ手紙などは書く事ができない。


体中相変わらずビクビクと勝手に動く。朝起きた時、背伸びをした時が特に多い。


舌の痺れは未だに残っていて、口の中と唇の違和感はあまり変わらずに残っています。

なのでたまに口の中を噛んでしまって痛い思いをします。


殆どの症状が緩和されてきているので、生活自体にあまり困る事はなくなった。

でも疲れると、何ともいえない身体の重さを感じるようになった。これは病気以前の疲れた時とは全く違う感覚のもので、何ともいえない「脱力感」です。

この脱力感自体は寝れば治るのだが、これがもし一生続くのであれば、結構嫌かもしれないと最近思いはじめている。

 

ひいろ@OTのおもちゃ箱


棒を使用して手の運動。

この棒は新聞紙の朝刊を固~く丸めてガムテープで周りを全部巻く。

この棒を両手で持って


前に押し出す。上に上げる。頭の後ろにもっていく。ねじる。左右に振る。

片手で棒の下をほうを持って指を少しずつ動かして棒の先までもっていく(この時手の位置は動かない)

 

・・・あとなんだったろう?(笑)10種類以上あったのだけど全部は覚えられない(笑)


作業療法と言えば、おなじみ豆つかみ(笑)息子も療育センターでやってます。

息子の場合はスプーンを使ってとかだけど、私の場合は手内筋を効果的に鍛える為に、指の関節を曲げずにつまむように指示される。

コレが思った以上にキツイ。最初はタオルの上に豆をのせてやってたのだけど

私が結構スムーズにやっているのを見るとお菓子箱のフタ(金属のやつです)にのせられてしまった。

コレがもっとキツイ。・・ここら辺が@スパルタの由縁です。

笑ったのがお菓子のフタに乗っているお豆くんたち、同じ方向に動くのよー。

それがなんか「ホラ~、できないだろう」ってお豆さんたちに笑われてるように見えてしまった私。

・・でもそんな事を言ったら「私が」笑われてしまった(笑)


座って手を伸ばして届くくらいの距離に紐を縛る。

2本下がっている紐を普通に1回結びをする。

それから1センチくらいのわっかを下まで作っていく。

・・できたら、それを元に戻す。コレも思った以上にキツイです。


小さいタオルをもう絞れません~っていうまで絞る。それをデシタルのはかりにのせて

何度かやってみる。出来るだけ新記録を出せるように頑張るわけです(笑)


いろいろな形のコインを適当に掴んで、そのコインを手の中で動かしながら、貯金箱に入れていく。要は手の中で小銭を探す作業の練習。


下敷きのような板に、ミニカー(車でなくても可。おもりになるようなモノ)をのせて8の字を描きながら動かす。もちろん下敷きから飛び出さないようにするのだ。


1センチくらいの粘土を左右に持つ。

3本以上の指を使ってできるだけ綺麗な球体を作るようにこねこねする。


「ぬり絵」を宿題に出される。

単純な作業だけど、もちろんぬりかたも決め事があります。

「色えんぴつを立ててもとにかく力を入れて、これでもかーというくらいにぬりたくる」という課題です。

7枚くらいあって、一生懸命もってこれでもかーというくらいにぬって持っていったら

「背景がぬってないのでぬってきて下さい」とダメ出しを出されてしまった。

・・・「普通背景はぬらないと思うのだけど?」という理由は、ひいろ@OTには通用しませんです、はい。


折り紙工作。細かい作業は、指がぷるぷるしてとっても大変です。


トランプ2枚でたくさん山を作る。ピラミットを作るのねー

・・でも難しくってできない