生産性がない弱者を容認できる社会のしくみとは?【やまゆり園の事件に思うこと】2

 

 こちらは、 全ての人が社会の中で安心して生活できるようにするには、今後どうしたらよいのかという事を障害者側の立場から考えた記事です。

 

hii-1701.hatenablog.com

 

 

こちらの記事とセットで書いたものです。できましたら、どちらの記事にも目を通していただければ幸いです。

 

事件以来、障害者が普通に生活をしていける社会に変わっていくためには、どうすればいいんだろうといろいろ考えた結果、私なりの結論を最初に書きます。それは

 

「すべての人が、幸福を感じられる社会になること」

 

自分が今の人生に幸せを感じ、生活に満足してる人は、誰かと比較せず他人の幸せを喜ぶことができますが、生活に余裕がない人が他人の幸せを願うという考えになるのは、かなり難しいことだと思います。しかも現代社会の仕組みは、牌の取り合いであるかのような印象を受けてしまう仕組みになっていることが多く、その上自分のテリトリーを囲い込むような風潮は、最近の世界的な傾向になっています。
しかし障害者は支援がないと、生きていくことができません。障害者支援は自分には必要ないからという人が増えていけば、障害者にとっては死活問題。福祉のお金を削れという発言はいずれ「障害者は生きてる価値がない」と結論に到達してしまいます。

しかしそういう発言ををされる方たちは、そこまでの事は言っていないという印象を

もっておられるのだと思います。

 

事実、福祉にお金がかかりすぎているという印象をお持ちの方がたくさんおられるようです。多分それは公的機関が障害者福祉の仕組みを一般の人にもわかりやすく説明をしてこなかったのが原因だと思います。
実際に障害者福祉に関してネットで詳細に調べようとすると、詳しくは役所に問い合わせてくれという文言が多く登場します。私はこの文言を、高齢者福祉でもたくさん見かけたことがあるので、障害者に限ったことではないのかもしれません。
支援はあるのですが、問い合わせをしないとよくわからない。その上支援を受けられるかどうかの判断が地域の中でも、はっきりとした定義がないことも多々。
日本全体の福祉の不透明さが、一般の人には理解しにくい状況になっているのだと思います。そして今回は詳細は書きませんが、確かに障害者福祉の中で無駄だと思われる部分もあります。しかしそれも支援自体が無駄という訳ではなく、申請自体が面倒なのでその後の経過は問わないというケースなどです。


あと障害者の法律がずっと付け焼刃で法改正されてきた経緯というのもあると思います。最初は身体障害者、その後知的障害、発達障害なども加えられることになったのですが、基本が身体障害者の法律のまま放置されているのが現象です。ですから本当に欲しい支援はなく、あまり需要がない支援が残されてるという現象もあります。

 

ある自閉症の息子さんを持つ有名お母さんAさんのお話を聞いた時
「50%の能力しかない人には、キッチリ50%の支援を頂きたい。51%以上の支援は本人の為にならない」と言っておられました。適切な支援があれば、できることが増えたり働くことができたりする可能性が増え、それが当然節税にも繋がっていきます。
現在でも障害者支援を受けるためには、数年ごとに調査があります。当然、改善されれば支援は少なくなりますし、状態が悪化すればより多く支援をもらえる仕組みになっています。ですから障害者への支援を削減させたいのであれば、個々への適切な支援をすることが一番確実な方法なのです。

 

今後はマイナンバーが障害者手帳障害年金などと紐つけされる予定になっているので、個々の障害の程度に合わせて適切な支援を受けられるようになっていく「筈」です。国が今後、国民全員誰にでも理解しやすい形で福祉の「明朗会計」を提示してくれれば、納得してくださる方も増えるのでは思います。
個々に必要な支援を必要なだけしてもらえれば、障害の改善の可能性もありますし、節税にもつながります。


そこで効率よく福祉を軽減する為に一番力を入れてほしい分野が特別支援教育です。障害がわかった時点で早期に介入することが重要です。

身体障害やダウン症などの遺伝子や目に見える障害で診断がつく子は、生まれた時から療育(障害に対応した教育)を受けられます。その結果状況が改善すれば、一般の社会参加ができる人材が増えます。特に軽度の発達障害の場合は、適切な環境や教育を受け、会社の理解があれば、障害者就労でなくても社会参加することも可能です。

 

ただここで問題なのは発達障害の診断です。3歳児検診でも発見できない場合があったり、保護者が診断を拒否することがあります。障害の疑いがあると、保護者が3歳児健診に連れて行かないなど。今はどうかはわかりませんが、昔は就学時健診でも見過ごされるケースが多々あったそうです。


そして実は障害者という認定を受ける受けないは、本人や家族の意思によって決まります。病院で障害の診断を受けたとしても、保護者が否定する、もしくは国の世話にはならないと手帳を申請しなければ、福祉や特別支援教を受けにくくなります(教育の場合は診断がなくても、支援を受けられるケースはあります)保護者が子供の療育を受けさせることを決断しない限り、無理矢理療育することもできません。

 

そして現在国は、家庭支援教育という施策を作ろうとしています。

 

 家庭の教育力の向上

http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/katei/1246352.htmwww.mext.go.jp

 


これが本当に保護者を支援するだけのものであれば問題はないのですが、大元が親学という大変評判の悪い施策なので、どういう方向に向かうのか、とても注目しているのですが・・

 

hii-1701.hatenablog.com

 
家庭支援教育の一番の問題点は障害児のケースです。断言しますが、障害児の子育てはマニュアルの講習を受けたぐらいで、誰もが簡単にできるものではありません。特に発達障害の場合、血が繋がってるんだから分かり合えるなどというのは幻想だと、思い知らされることもよくあることです。
ですから、日々一緒に行動観察をし情報共有し、適切な関わり方を模索してくださる支援者が必要です。保育園や幼稚園を義務教育化して、そこに専門家を配置するくらいの事をしないと難しいかと。

 

幼児教育の有効性は既に証明されてるそうですし。

 

eduview.jp


そうすれば、小学校に上がるまで地域にどんな子がいるのかがわからないなどという事もなくなります。

 

www6.nhk.or.jp

 

子供と離れる時間が増えれば、母親が子どもを虐待する機会が減り、虐待の危険も減ります。

 

blogos.com

 

当然、これは少子化問題の特効薬にもなる筈です。


さて。それでも誰がなんと言おうと「障害者、生きてる価値なし」と思われる方はきっとおられるのでしょう。そういう発言を見つけるたびに、そういう方々にも、個々に何かしらの理由があるのではないかと感じることがありました。


前記事に書いたように弱者を、排除するのは本能なので正直に本能に従っている人。

 

受けてきた教育の影響でそういう考え方になったのでは?と思われる方。

育ってきた環境が違えば、考え方が違うのは当然で訳で。

www.nhk.or.jp

 

あとは自分は普通で平均だと思ってる人とか・・

普通とか平均とか感じている人は、自分よりも低い能力の人は目立つのでよく認識してて線引きしますが、平均どころか学年すら飛び越えてしまう出来すぎな人達には線引きせずに同じグループだと認識する人が多いのではないでしょうか?

現在の日本には飛び級制度がないので、年相応以上に出来すぎるギフテッドと言われる子供たちの存在は埋もれています。なので平均値以下の障害児がより目立つ存在になっているのです。日本ではギフテッドには全く支援がありませんが、イギリスではギフテッドも支援教育の対象になっていると聞いた事があります。

 

全ての子供たちが、個々の自分の能力を最大限に伸ばせる教育を受けられるようになれば、平均や普通であることにこだわる必要もなくります。そして今後は飛び級をしなくても、それが可能になる仕組みがあります。

 

教育の情報化の推進(ICT教育)

 

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/index.htmwww.mext.go.jp

 

ICT教育が導入されれば、個々の習熟度別教育は可能です。既に予備校などで導入されているようです。教科ごとに個々の習熟度での勉強ができれば、自分の得意分野を子供の頃から伸ばすことが可能になります。特に発達障害の子供たちの中には、教科の得手不得手が激しい子が多いので、得意分野はどんどん伸ばして、苦手な分野はそこそこ伸ばしていく教育を受けられれは、将来の特性を生かした就労にもつながります。


そして障害者支援で一番必要とされているのは人的支援ですが、ロボット支援の導入すれば人的支援を補えると思います。特に自閉症に対しては、人よりもロボットのほうが効果的なのではと様々な研究がされいます。

 

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常識は10年も経てばガラリと変わります。特に今後10年は、様々な常識が覆されそうです。私はそれにとても期待しています。そして例え人の本質が「悪」であったとしても、今までも様々な善の行動があったからこそ、今の社会が存在しているのだと思います。歴史はそれを証明していると信じています。

 

最後に。今回の事件で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

そして身体と心を傷つけられた当事者さんとそのご家族の方々は、多分今でも様々な感情が渦巻いているのではないかと。それぞれのご家庭によっても様々な事情もあるのだろうと想像すると「大変でしたね」などというと、ありきたりな言葉を言うことさえ躊躇してしまいます。

 

何も悪いことをしていない多数の方々が、犯人の自分勝手な思いこみのせいで事件に巻き込まれ傷つけられた。そして私自身、あの事件に巻き込まれたのは、うちの息子だったかもしれないという想像をリアルに感じてしまい、心乱れる日が続きました。

この半年、ずっとこの事件を心の中でひっかかっていました。だから半年もかけてこんな長文をぐだぐだと書かざるおえなかったのです。何故そこまで、この事件にこだわりつづけたのか。それはただ「息子が笑って一生を送れるように」というひとつだけの願いの為に。

 

息子が毎日、たのしく暮らしていけますように。

そしてこれを読んでくださった方も、毎日たのしく暮らしていけますように。